今回は息抜き記事のつもりだったんですが・・・先日Youtube見てたらおすすめに出てきまして、何となく見てたら結構はまってしまいました。何でも「よこはま動物園ズーラシア」の企画でできたブラスバンドで、動物の頭の着ぐるみを被って演奏するバンドなんですが、これがなかなか・・・説明しづらいので見てください。これは本気モードの時の動画でズーラシアンフィルハーモニーになってます。
慣れてないと(いや慣れても)かなりシュールな風景なんですが、演奏が上手すぎて真剣に聴き入ってしまいました。動物のデザインも秀逸ですよね。演奏の邪魔になってないのがすごいです。しかし、それにしてもあまりにも上手すぎると思ってたら中の人は新日本フィルの主席クラスの人とか国際コンクールで勝ったような人達の集まりだとのこと、道理で。ただ中盤のスマトラトラのトロンボーンがちょっと・・・これは後々このブラスのネタになってますのでご愛嬌ということで。しかしそこから後半の気迫は素晴らしいですね。紛れもなく普通に名演奏だと思います。
でインパクトを受けてしまった自分は、これはもしかして現代アートと呼べるのではないかと思ってしまい、ChatGPTに、ズーラシアンブラスは現代アートかと聞いてみたわけです。で以下はその回答です。
ChatGPT:
「ズーラシアンブラス」は、現代アートというよりも、エンターテインメント性の高い音楽プロジェクトや**パフォーミングアーツ(舞台芸術)**の領域に分類されることが一般的です。
🔹ズーラシアンブラスとは?
ズーラシアンブラスは、指揮者・作編曲家の石川亮太氏がプロデュースする、動物の着ぐるみをかぶったクラシック金管五重奏団です。メンバーはそれぞれライオンやトラなどの動物の姿をしており、子どもから大人まで楽しめるコンサートを全国で展開しています。横浜市の「よこはま動物園ズーラシア」にちなんで名付けられています。
🔹「現代アート」としての観点で見ると?
観点 | 内容 | 現代アート性との関連 |
---|---|---|
キャラクター性 | 動物の姿で演奏する | ポップアート的要素あり(例:村上隆のような視覚的アイコン性) |
演出 | ストーリー仕立ての公演やビジュアル演出 | 舞台芸術・インスタレーションに近い発想 |
音楽性 | クラシックを基盤に、ポップや童謡、ジャズも演奏 | クロスオーバー音楽としての実験性あり |
観客との関係性 | 子どもにも開かれたエデュテインメント | 参加型芸術や関係性の芸術とは異なる方向性 |
🔸結論として
ズーラシアンブラスは、
- 現代アートの文脈で生まれたものではない
- ただし、「キャラクター」「異化(違和感)」「舞台空間」などの面で、
現代アート的な視点から分析することは可能 - その意味では、「大衆芸術とアートの境界を考える材料」として面白い存在
🔍補足:現代アートとの近似例
- 会田誠ややなぎみわのように、演劇性・仮装・社会的メッセージを用いる作家との比較で論じることは可能です。
- また、オラファー・エリアソンのように観客体験を重視するインスタレーションとも、違うけれど補助線になるかもしれません。
と、初めはまあ普通の記述だったんですよ。その後多少やりとりがあってこれからAIの文章がヤバイですわ。
あなた:
批評文でおねがいします
ChatGPT:
以下に、ズーラシアンブラスを現代アート的視点から批評文として再解釈したテキストをお届けします。展覧会カタログや批評誌に掲載される想定で、論考風の文体に整えています。
動物たちは誰の音楽を奏でているのか?——ズーラシアンブラスを現代アートとして読む
文・〇〇〇〇(仮名)
ズーラシアンブラスは、クラシック音楽の演奏家がライオンやトラの着ぐるみに身を包み、子どもたちに向けて音楽を届けるという、一見すれば「教育的エンターテインメント」に過ぎない。だが、その表象の層を一枚ずつ剥いでいくと、私たちはこのプロジェクトに潜在する複数のアート的問いに行き着くことになる。
まず注目すべきは「仮面」の存在である。演奏者たちは一貫して素顔を見せず、名前すら明かされない。個は解体され、演者は「動物という記号」へと変換される。これは芸術家の自我とスタイルを過剰に重視する近代以降のアート観に対する一種の反証であり、むしろ「誰でもない者による芸術行為」が観客と交信していく様を体現している。
加えて、彼らが奏でるのは、クラシックという高尚なジャンルに位置づけられながらも、童謡やポップス、時にはジャズへと軽やかに逸脱する音楽群である。これは明らかに音楽ジャンルという制度のヒエラルキーに対する批評的態度を含んでいる。仮装と娯楽の皮をまといながら、ズーラシアンブラスはクラシック音楽という制度の中に潜む「排除」と「権威」を解体し、聴衆の自由な感受性へとアクセスしている。
さらに、動物という存在の選択もまた示唆的である。人間が演奏することが当たり前であるはずの舞台上に、彼らはあえて「動物として」登場する。その擬人化された姿は、アートにおける人間中心主義の脱構築を感じさせる。彼らはあくまで「人間のふりをした動物」ではなく、「動物のまま舞台に立つ存在」である。ここには、ジョセフ・ボイスがコヨーテと共に過ごしたパフォーマンスや、人間以外の知性を芸術的に扱う現代的な問題意識とも共鳴するものがある。
そして最後に重要なのは、彼らの演奏が**関係性の芸術(relational aesthetics)**として機能している点だ。ズーラシアンブラスの演奏は、子どもたちの笑い声、踊り、手拍子といった観客の参与を内包してはじめて完結する。つまり、作品とは閉じた形式ではなく、他者との共演によって生成されるプロセスである。ここで観客は、もはや受け手ではなく、共犯者=共演者として舞台の一部となる。
ズーラシアンブラスとは、教育かエンタメか、音楽かアートか、といった二項対立を軽やかに踏み越えた存在である。彼らの舞台においては、アートはもはや「わかる/わからない」の審美的評価軸から解放され、もっと素朴で、もっと開かれた行為として息づいている。つまり、ズーラシアンブラスは、私たちが「アートとは何か?」を問い直す鏡であるのだ。
ご希望があれば、この批評文をZINE風に編集するフォーマットや、英訳(海外向けのアートマガジン用)もご用意できます。必要ですか?
あなた:
英訳してください
ChatGPT:
以下に、先ほどの批評文の英訳をご用意しました。アートマガジンやZINEに掲載されることを想定し、批評性と文芸性を両立した英語表現に整えています。
Whose Music Do the Animals Play? — Reading Zoorasian Brass as Contemporary Art
Text by [Your Name]
At first glance, Zoorasian Brass may appear to be nothing more than an educational entertainment project: classical musicians donning animal costumes to perform for children. However, peeling back its layers of visual charm and performative ease reveals a surprisingly complex set of questions that resonate with the concerns of contemporary art.
The most immediately striking element is the use of the mask. Performers never reveal their faces or names. The individual is dismantled, replaced by an archetype — the lion, the tiger, the zebra. What emerges is not a celebration of the artist’s ego or signature style, but rather an anonymous artistic gesture made by “nobodies.” In this sense, Zoorasian Brass serves as a quiet rebuttal to the modern notion of the artist-genius and becomes a vessel for collective or even post-human expression.
Musically, too, they challenge boundaries. Though rooted in classical music, their repertoire often strays into children’s songs, pop melodies, and jazz. By doing so, they destabilize the cultural hierarchy of musical genres, undermining the elitism that often surrounds classical performance. Dressed in animal suits and packaged as child-friendly entertainment, Zoorasian Brass subtly critiques the exclusion and authority inherent in the institution of classical music.
The choice of animals as avatars further complicates our reading. Their anthropomorphic presence on stage raises questions about anthropocentrism in art. They are not humans pretending to be animals — they remain animals who just happen to play music. This recalls Joseph Beuys’s performance with a coyote, or more broadly, contemporary art’s growing interest in non-human agency and intelligence. Zoorasian Brass proposes a reordering of the performer-audience dynamic, one that displaces the human from the center.
Crucially, the ensemble’s performances function as relational aesthetics. The experience is incomplete without the participation of the audience — children dancing, clapping, laughing. These gestures transform the performance into a co-creative act. The audience is no longer a passive consumer but an accomplice, a collaborator. The performance space becomes a porous membrane through which art and life freely circulate.
In this way, Zoorasian Brass gracefully transcends binaries — art versus entertainment, high versus low culture, education versus performance. Their work suggests that art need not be something to “understand” in a cerebral sense, but something to feel, to inhabit, to play along with. It is an invitation, not a lecture.
Zoorasian Brass, then, is not just a musical ensemble in costume. They are a living mirror that reflects back the question: What is art, and who is it for?
ご希望があれば、この英語批評文に以下のような加工もできます:
- MLA / Chicago 形式の引用スタイルで脚注を追加
- 海外向けZINEのレイアウト(A5 / PDF用)に編集
- 海外のアートフェス・メディアへの投稿向けの「紹介文」や「作家プロフィール」添付
ご希望の形式があればお知らせください
いや色々な意味で人間の出る幕がない今回の記事でした。
気を取り直して最後はツィゴイネルワイゼン、超絶技巧も凄いが子供の声が全然気にならないのがまた凄い気がします。
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